2013年7月6日土曜日

編集中、長編小説『征生男(ゆきお)・惜春』の小出しチョイ出し



 歩いた。ただ歩いた。
 華やかに賑わう道頓堀の繁華街。寒風に煽られながらも人々の往来は密になっていく。また突き当たられないように周りの気配を読みながらも苦悶の心は張り付いていた。誰とも遊離したい苦しく切ない寂寞が四肢まで萎えさせ胸の中でやり切れなく蠢く。
 戎橋を北に折れ心斎橋筋で群衆の流れに身を任せて歩いた。人の群れも左右に連なる商店の有様も目には止まるが意識に入らずただ歩いた。大丸百貨店が見えた。その入口の飾られたイルミネーションにふと我に返りあらためて群集の雑踏が意識の中に入ってきた。
 群れるのは好きではない。しかし今はこの関係のない人の群れの動きの中に自分の孤独がどこかで隠れていられるような僅にも救いのようなものを感じた。
 群れて輝きを放つイルミネーション。その一つ一つは鋭いが小さな光でしかない。群れる連鎖が鮮やかで華麗な存在を顕わす。皆が同一で群れの中で連鎖して群れの有様だけが浮き出てくる。
 オレは嫌や。どこか独りで輝いていたい。輝かずとも独りの存在でありたい。そう叫びたいような思いの反対に今夜の独りは何と微弱な心か。左右前後、何処に進んでも塞がっているようで哀しみだけが張り付いて彷徨う矛盾に苛まれている。

戎橋まで帰ってきた。立ち止まり欄干から濁った川面を眺めた。川面を見る。
 涙。

欄干に両肘をつき、流れる涙。落ちる。川面に小さく透明な滴が落ちていく。
 子供の頃はずっと泣いていた。泣き虫の汚名も被せられた。今は人前では絶対に涙を見せなくなった。
 子供の頃から辛い事がいっぱいあるような気がする。いつも胸の底に渦巻く哀しいもの。征生男にはその正体が掴めない。
 正紀への恐れは今では憎しみになり兄弟でもいつか絶対決着を着けるのだ。ただ兄であり、年が上だけで何で抗えずやられ続けられきたのか。今は正紀への怯えはない。それでも正紀はいつも蔑みの眼を冷たく刺してくる。優等生、お利口さんを笠に着ている。相容れない。
 父の征信、いつかは殺す。母への虐待は絶対許せない。父と兄を思うと家には帰りたくない。しかし、征生男の居ない時、又いつ征信の暴力が母を捕らえるかと思うと少しでも家に居なければ。高校に入って流石に征信の暴力は影を潜めてきた。征生男だけでなく正紀も父を諌める。妹たちも泣いて父を制するようになってきたので以前ほどの不安はなくなった。

そして、母の千代も強くなってきた。
 今回の条件付処分を聞くと正紀は「恥さらし」と大げさに喰ってかかって来るだろう。征信は直接自分には何も言わない。冷たい一瞥を与えるだけだろう。その代わり「お前の育て方が悪い」と子供達が居ない時、母に暴力を振るうかも知れない。起こりえる事態を想定して重い憂鬱が生まれ出口の見えないもどかしさ。母さえ居なければ家なんて出た方が良いのだ。幼児の頃からずっとそう思ってきた。そんな思いの時はいつも勝之の家で泊った。学校だけではなく、親戚の殆んどが兄の正紀と比較してくる。何でこんな子が嶋田家に出来たのかねと。
 勝之の父、武松だけが「おいっ、ユキオ」と何時もニコニコ呼び止めてくれるのと従兄弟の四つ上の敏江だけが例外だった。
 照美ちゃん。
 敏江の優しい笑顔を思い出した時、照美の面影が川面に映し出されたかように不意に浮びあがった。そや、あれからモカには行っていない。勝之を誘うと「俺は又邪魔もんになるやろう。征生男ちゃん一人で行けや」で、一人で行くなど考えもしなかった。かと言って配下の誰をも連れて行く気にはなれなかった。
 一人で行って照美と眼が合った瞬間全ての思考が停止して何をどう喋ったら良いのか、それを思うだけで緊張が走る。それを突き破る勇気は自分にない。ずっとそう思い続けていた。
 今夜の自分は違う。緊張や恐れがない訳ではないがそれに打ち勝つ程、無性に照美に逢いたいと思った。道頓堀を渡り戎橋商店街を真っ直ぐ南下した。
 モカの前に立って、「えっ、ちょっと待てよ」ポケットをまさぐった。やっぱり無い。出てきたのは十円玉三枚。珈琲代は八〇円。
 玉突は常勝するから自分で払うなんてまずなかった。むしろ終わったら僅かだが掛け金が入りそれで遊んだ。
 今夜は玉突もしていない。コーヒー代もない。
 諦めて帰ろう。帰ろうとして歩く。どうしてもモカを中心にグルグル回っていた。
「征生男ちゃん」

ハッとして俯いていた頭を上げ前を見た。
「いやーっ。こんなとこでおうて。何してんのん」

 征生男は言葉もなくしばらく棒立ちになった。

「店に来て。もう直ぐ終わりやし、一緒に帰ろう」 
照美が眩い。
「オレッ、今夜、カネないし」
「そんなん心配せんでもエエ。うちが出すし」
 照美が胸をポンと叩いた。叩いた胸の膨らみが幽かにプルンと揺れた。ゴクッ、征生男は思わず眼をそらす。
「アカンの?うち、今、出前の帰りやから早よ店に帰らなアカンねんエエやろう。一緒に行こう」
 トレンチコートに手を突っ込んだまま椅子に座ってテーブルの一点を見つめてはいるものの、チラッチラッと照美の動きを追う。ハイヒールを履いた照美の長い足が視野に入り近づいてきた。ほっそりして躍動する脚線美に目をやるのも眩しく何故か罪の意識を覚える。「はいっ、コーヒー。コーヒーで良かった?後二〇分程したら終わりやねん。ほんだら一緒に帰ろう。待っててくれるやろう」
 大きく頷いて「うん」と言った積りが声にはならない。


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